ベッドタウン

「ベッドタウン」は、都心へ通勤する人の住宅を中心に発達した、大都市周辺の郊外化した衛星都市です。
駅などを中心に自然発生した場合もありますが、当初から都市への通勤者向けに計画的に造られたものもあります。

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明治時代末から大正時代にかけて都市への人口が集中したこと、工場と住宅の混在による環境問題、スラムの発生などが社会問題になっていました。

そこで西欧の「田園都市」思想が紹介され、環境のよい郊外の生活も提唱されるようになったそうです。

サラリーマンの増加に伴い、彼らの住居の需要に応えるために鉄道会社などが、近郊の農村の宅地開発を行なってきました。

仕事があるなら今はもうわざわざ都心に住まなくてもいいんですけどねぇ。
欲しいものは何でもネットで買える時代ですし。

まー地方に仕事がないのが問題なのか。

阪神間モダニズム

「阪神間モダニズム」とは、戦前にかけて、主に六甲山系と海に囲まれた理想的な地形を有する阪神間(神戸市灘区・東灘区、芦屋市、宝塚市、西宮市、伊丹市、尼崎市、三田市、川西市)を中心とした地域を土台に育まれた、近代的な芸術・文化・生活様式とその時代の状況を指します。

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(関西学院 上ケ原キャンパス)

大正12年に起きた関東大震災によって、継続的な都市化が一旦中断した東京湾岸とは対照的に、都市拡大を続ける大阪湾岸(大阪・神戸)近郊の郊外化にともない、大阪府下の池田市、箕面市、豊中市、および神戸市須磨区・垂水区辺りまで、その文化圏は拡がっていきました。

大正時代の子供服


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かわいいですよね。

この頃の子供たちは、羽織に袴を履いています。
教科書はランドセルじゃなくふろしきに包んで持って行き、黄色のふくろに草履を入れ、胸には健康表示を付ける、というのが基本的な格好だったそうです。

履物は男子は高下駄で女子は雪駄。これで通学していたんですね~。

また、学校の先生は、男性教諭がつめえりの服で、女性教諭は、羽織袴という服装で決まっていたそうです。


非政党内閣

これとほぼ同時に組閣した寺内正毅内閣が成立。
大正6年のロシア革命でソ連が成立しましたが、日本は革命政権が覆った為にシベリアに出兵。

丁度その時、大戦景気によるインフレとシベリア出兵をきっかけとして国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がりました。
政府はやっとの事でそれを鎮圧しましたが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣・・・。

代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として政友会の原敬さんが首相となって、大正7年本格的政党内閣として原敬内閣が成立!
しかし・・・大正10年に原さんが東京駅頭で青年に暗殺されたのです・・・。

続いて政友会総裁となった高橋是清さんが首相となったのですが、政友会の調整能力に欠き、高橋内閣倒閣後は非政党内閣が続いたのです。

その後・・

このため山本権兵衛さんに組閣の命令が下りました。
立憲政友会の援助を受け、原敬内相の下、安定した政権運営を行ったのです。
軍部大臣現役武官制を緩和するなど、政党寄りの姿勢を示していたのですが、シーメンス事件をきっかけに再び世論の反発を受けて、最終的には貴族院との関係悪化から倒れてしまい・・・。

次いで元老井上馨さんの後押しで、庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣。
大正3年に勃発した第一次世界大戦では、加藤高明外相が中国に二十一か条の要求を提出しました。

大隈内閣退陣後には、二大政党制を目指して、大正2年に桂が死の直前に結成した立憲同志会が他党を取り込むかたちで憲政会へと拡大ていったのです。

桂太郎

桂太郎さんが議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとしました。
この桂さんの返り咲きに対して・・・都市部の知識階級を中心に反発は、強くなったそうです。そりゃ、そうですよね・・・。

そして尾崎行雄・犬養毅さん達による憲政擁護運動(護憲運動)が起こって、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、ついには僅か数ヶ月で倒閣となりました・・。
色々な政権交代があったのですね。
いつの時代もそうだったのですね。

大正初期

明治末期にかけては軍部や元老山縣有朋の下で藩閥政治が続いていましたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎さんと比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていたそうです。時代という風に名づけるのは・・・相当な影響力があったんですね~。

そして明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職しました。結局は、全員辞めてしまったのです。

民主的な色彩

大正12年(1923年)に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。

原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。普選運動が活発化し、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。大正14年(1925年)には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈し、君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。

内閣を組織

大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、大正7年(1918年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相原敬が内閣を組織した。