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2009年06月 アーカイブ

2009年06月07日

1912年7月30日から

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大正(たいしょう)とは、日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である大正元年(1912年)7月30日から大正15年(1926年)12月25日までの期間を指す。
大正元年(1912年)7月30日 - 明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が践祚したため、改元の詔書を公布、即日施行した。
大正15年(1926年)12月25日 - 大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が践祚したため、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。

大正天皇実録

「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とお)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。

なお大正天皇実録によれば他の元号案として「永安」「乾徳」「昭徳」「天興」「興化」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。

大正デモクラシー

本時代は後世から振り返った時、大正デモクラシーに基づいた安定期として見られることが多い。しかし、同時代的には、近代日本の象徴であった明治天皇の崩御、そして病弱であった大正天皇の即位、という不安感を拭いきれない状況から始まったのである。また、大正期を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働争議の激化など社会的な矛盾が深まっていった。

内閣を組織

大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、大正7年(1918年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相原敬が内閣を組織した。

原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。普選運動が活発化し、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。大正14年(1925年)には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈し、君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。

民主的な色彩

大正12年(1923年)に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。

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