このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。立憲政友会の援助を受け、原敬内相の下、安定した政権運営を行った。軍部大臣現役武官制を緩和するなど、政党寄りの姿勢を示したが、シーメンス事件をきっかけに再び世論の反発を受け、最終的には貴族院との関係悪化から倒れた。
次いで元老井上馨の後押しにより、庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦では、加藤高明外相が中国に二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。
大隈内閣退陣後には、二大政党制を目指し、大正2年(1913年)に桂が死の直前に結成した立憲同志会が他党を取り込むかたちで憲政会へと拡大した。