安定成長期の無理のない移行 2
初年度にあたる1951年は、各国に先がけて輸入の自由化を断行したので4億8000万ドルの借りこしとなったものの、これは自由化のための一時的負担と受けとめられました。
しかし、翌年からは黒字を累積するようになり、1953年には、域内における輸入自由化率90パーセントを達成、貿易の数量制限と為替管理から解放されて輸出規模を着実に伸ぼしていきました。
1958年のEPU解散までに西ドイツは、45億8100万ドルの債権を累積させました。
ちなみに債務を累積させたのはフランス、イギリス、イタリアでした。
もともとEPUは、加盟各国が貿易量を拡大し、対米自立を達成するための暫定的な制度でした。
そのため、1958年、各国通貨の自由交換性の回復とともに解散しました。
ちなみにこの1958年という年は、西ドイツの高度成長に一応のピリオドが打たれ、次の安定成長へ向かう年でもありました。
EPUの動きと並行して、ヨーロッパの政治経済的な統合の動きが進んでいた。
この流れの中で西ドイツはどのような動きをしたのでしょうか。
当時、東西冷戦下のアメリカの世界戦略からすれば、ヨーロッパの統合は、ドイツ問題の西側的解決の場をつくることでした。
これに対して西ドイツの側には、経済的な繁栄こそが東ドイツを吸引する力となるであろうというアデナウアーの"磁石理論"が用意されていました。